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療養病院での最期。父が周囲に残してくれた事への感謝~介護体験談Mさん4

2015年11月16日

脳梗塞で言語中枢を損傷し、身体的にも弱ってきたお父様を、自宅で介護し続けたM・Uさん。発症したばかりの頃は杖をついて歩き、会話もできましたが、寝たきりになった後、10年ほどは黙々と看病する日々でした。やがてお父様はさらに衰弱して……。彼女の介護もクライマックスに。

 

*この体験談の1回目2回目3回目4回目(最終回)はこちら

 

寝たきりになっても、父らしさを失わないように

4_1介護ベッドを家に入れてからも、父は10年以上長らえました。訪問のヘルパーさんや入浴介護を受けながら、ずっと在宅でみてきました。母も私も一息つきたくて、デイサービスに通ってほしいと思ったのですが、父が泣いて嫌がるのです。言葉を発することができない父が唯一できる意思表示、それが泣くこと……。切なくて、「それでも行ってください」などとはとても言えず、結局家でみることになりました。

 

父はしゃべれなくなっても、私たちに対して、「迷惑をかけている、申し訳ない」という思いでいっぱいでした。父の涙や口元や細かな表情から、感じ取ることができます。「こんなに迷惑をかけるのなら、死んでしまいたい」と思っていることも感じています。だからこそ、長く父と寄り添うことができたのだろうと思います。

また、母も「できるだけ家族でみたい。お父さんには本当にお世話になったのだもの。私が最後までみたいの」と言います。夫婦の絆は強く、この絆も大切にしたいと思いました。

 

担当医や姉たちも、親身になり、同居している私や母を支えてくれました。担当医は、「とにかく、お父さんをリスペクト(=敬意を表すこと)してください。目はどこ?と聞いて鼻をさしたとしても、それはお父さんの本質が変わってしまったわけではありません。病気がそうさせているだけです。お父さんをリスペクトし続けてください」と言ってくれます。

 

母は父のことを「かわいそう」と言って泣くのですが、私はそれをたしなめます。「父は大変だけれど、かわいそうな人ではないのよ。父はいつでも私たちの尊敬するお父さん。赤ちゃん言葉を使ったり、『さあ、オムツを取り替えるわよ』みたいなあけすけなことを言ってはダメ」と言い続け、父が父らしさを失わないように仕向けてきました。

 

母の身体の心配から、父を療養病院に

4_2それから10年。私も母も、父に寄り添い続けました。子どもが成長した真ん中の姉も、その輪にどんどん加わってきてくれます。「3人で介護」がいいバランスとなった頃には、母も当初の弱々しさはなく、しっかりと父に向き合い、父を支えるようになりました。姉もまた、オロオロしていた当初とは打って変わって腹がすわり、父にどんなことがあってもまるごと包むようなおおらかさを身につけたと思います。私と母と真ん中の姉は、父によって大きく成長しました。

 

毎日のお世話の中心は、介護ベッドを起こして食事をさせること、痰の吸引をすること、そしてオムツを替えることです。またそれだけでなく、父に話しかけたり、体をさすったりしながら、父娘の交流も続けました。返事は返ってこなくても、自分の仕事のことや家族の思い出などを話して、父らしいポジションを大事にしてきました。

 

肺炎になったときは、脳梗塞の薬を飲んでいることで抗生物質が使えず、大変な思いをしました。そして、医師に「覚悟してください」と言われ、延命装置を付けるかどうかと聞かれました。私が「付けない」方向でサインをすると、母が泣き崩れて……。でも、父はきっとただ生きていればいいとは思わないだろう、父も延命装置なんていらないと言うだろうと思いました。戸惑う母をなだめながら、父への尊敬の念を消さないようにと努力しました。

 

しかし、父が年を取るということは、母も年を取るということです。母も長年の介護で腰を痛めるようになりました。そして、父の死期も、少しずつ近づいて来ているのを感じて……。そんな折、介護の大先輩からアドバイスを受けました。「そろそろ療養病院のお世話になることを考えたほうがいいんじゃない? まずお母様の健康状態がもっと悪くなるし、もし自宅で亡くなったら、きっとお母様は大きく傷つく。警察が来て事故でないかどうか質問をしたりすることに、お母様は耐えられないかもしれないし」と。もちろん、母は反対しました。けれど、介護で共倒れになってしまっては元も子もありません。母や姉たちとよく話し合い、療養病院を探すことにしました。

 

なかなか空きのない療養病院をやっと見つけたと思ったら閉院になってしまうなど、不運が続きました。探し始めてから4つめの病院を訪ねると、院長は以前にかかっていた病院の担当医でした。大学病院をやめて開院したその病院は、父を迎えるに十分な受け入れ態勢がありました。父はようやく、最後の安住の地を見つけたのです。

 

私たちは父のもとに毎日のように通いました。少しずつ衰弱していきましたが、まだまだ生きられる、そう思いました。ところが4カ月たったある日、医師は「そろそろお迎えが来ているようです。ご関係の方々をお呼びしたほうがいいと思います」と。ちょうど帰国していた長姉の家族や真ん中の姉の家族を呼び、みんなで父を囲みました。

 

父の介護の17年の間に、真ん中の姉の娘は、大学を卒業して働いていました。彼女は何度となく父を見舞い、父の気持ちを明るくさせてきた大事な孫でした。また、小さい頃、「おじいちゃんを助けたい」とイギリスで想い続けていた長姉の息子は、願いどおり医師になりました。集うみんなが、父に穏やかにひきつけられ、ここに集まったと思えました。

 

そんな中、父はとても静かに息を引き取りました。苦しむこともなく、安らかに。84歳でした。

 

父は、私たち家族に17年間、介護をされて亡くなった、と言う人もいます。けれど、そうではない。私たちが17年間、父に支えられていたという面もありました。父がそこに存在しているだけで安心でき、家族も「がんばらなくては」と思えた。最後まで頑張り続けた父の姿は、私たちの目標です。

 

穏やかで、家族を愛し続けてくれた父は、もういない。そう思うと、亡くなって3年ぐらいはいつでも涙が出てきました。何をしていてもふと父を思うと泣いてしまうので、とても困りました。母も姉たちも同様だったと思います。

 

ただ、父は私たちに、かけがえのないプレゼントをくれました。母は、長年の介護をたたえ、品川区町から表彰していただきました。賞状とお寿司のチケットをいただき、真ん中の姉と3人で、父を偲んでお寿司をいただきました。今でも父のことを話すと涙してしまう母ですが、笑顔も見せられるほどに強くなりました。真ん中の姉は、父が亡くなった後、ヘルパー2級の資格を取り、現在も訪問介護の仕事をしています。改めて、父の与えてくれた影響の大きさを感じます。

 

父の姿はないけれど、私たち家族の胸の中にはいつも父がいます。父が私たちに残してくれたことの大きさを、今でも感謝し、父が今も幸せに眠ってくれることを願っています。

 

*写真はイメージです。

 

*この体験談の1回目2回目3回目4回目(最終回)はこちら

 

プロフィール

M・Uさん(女性 50歳)派遣業主
東京都在住。30歳のときに父親が脳梗塞で倒れ、母親、姉とともに介護を始める。当時父親は66歳。いつしか介護のキーパーソンとなり、父親に寄り添うようになる。ミュージシャンとしての仕事をセーブし、ミュージシャンや俳優のアルバイトの仕事を斡旋する派遣業を主な仕事とする。父親に施していた足ツボマッサージを入院中の病院の看護師に教えたことをきっかけに、足ツボマッサージの講師としても活躍。17年間闘病した父親は3年前に他界。現在独身。

 

介護体験談はこちらの記事も参考に

私が思う「良い老人ホーム」より
●デザイナー・東海大学講師/山崎 正人さん
●モデル・タレント・ビーズ手芸家/秋川 リサさん
●フリーアナウンサー/町 亞聖さん
●エッセイスト・ライター/岡崎杏里さん
●フリーアナウンサー/岩佐 まりさん
●映画監督/関口 祐加さん
●漫画家/岡 野雄一(ぺコロス)さん

 
さまざまな介護体験を語っていただいています
→ 介護体験談<親の介護 編> 一覧
→ 介護体験談<義理の親の介護 編> 一覧
→ 介護体験談<妻・夫の介護 編> 一覧
→ 介護体験談<祖父母の介護 編> 一覧
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