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父の介護で実家に戻ることに。娘としてできることは?~介護体験談Mさん2

2015年11月2日

脳梗塞で倒れて一命を取りとめたお父様。しかし、目を覚ますと、以前のお父様とは大きく違っていました。ここからがM・Uさんの介護の始まりです。母親や2人の姉と協力しながら、濃密に、そしてやさしく的確に、お父様を支え続けました。

 

*この体験談の1回目2回目3回目4回目(最終回)はこちら

 

言葉が出てこない…退院後にリハビリを

2_11カ月の眠りから覚めた父は、脳梗塞の後遺症が残りました。右手が動きづらく、右足も一歩を踏み出すのが大変です。でも、動けないことはなく、ホッとしたのですが、言語中枢に大きな損傷が残りました。文字も言葉もなかなか出てこない。家族のそれぞれが誰なのかはわかるのですが、名前が口から出てきません。視覚にも障害が出て、右側がよく見えないようです。食事をしていても、お茶碗の左側は食べるのですが、右端は残してしまう。最初は理由がわからなかったのですが、見えないから食べられないのですね。食事の途中でお茶碗を左に移すと、全部食べられる、そんな状態でした。

 

記憶もかなりあいまいで、身近なものの名前や役割もわからない。「急にアルツハイマーになってしまったかしら」と母はまた泣くのですが、医師からは「あくまで脳梗塞による症状です。認知症ではありませんから、リハビリに努力してください」と言われました。

 

しばらくは病院でリハビリをしていましたが、急性期を過ぎて退院となり、やっと我が家に帰ることができました。両親とは別にアパートを借りて住んでいた私ですが、心配性の母に父の介護を任せるわけにもいかず、実家に戻ることになりました。

 

母は父と結婚して40年近く経ちますが、母は父に頼りっぱなしでした。父母とも両親を失って寂しい境遇だったためか、結婚後、父は母をとてもかわいがったのですね。もともとお金の計算が得意ではなく、忘れ物も多かった母を心配し、父は銀行でお金を下ろしたり、家計の計算をしたりすることを、全部請け負っていました。家のことで母が矢面に立つようなことは一切なく、困った事態に陥ったら、すべて父が解決していました。

 

私には姉が二人います。でも、一番上の姉は、夫の仕事の関係で、小さな子どもを連れてロンドン在住。現地での生活も大変なときでした。真ん中の姉もまだ子供が小さく、夫の両親の体が弱くて、そちらの世話もあります。結局は、「しっかり者」と言われていた末っ子の私が、父の介護のキーパーソンになりました。独身ですから、身も軽かったのです。

 

父が家に戻ると、さっそく専用の機器を使って、言語機能のリハビリを始めました。コップを見せ、振動と音で「コップ」という音を出し、体感してもらって自分も声に出す。繰り返し繰り返し、思い出して脳に働きかけ、声を出すことを続けました。数字も読めなくなっていたので、数字の練習もしました。

 

そのうち、少しずつ話せるようになっていきました。緊張してしまうと、「あー、うー」となってしまいます。病院で「お名前と生年月日を言ってください」と言われても、緊張のあまり答えられないことも多いのですが、私と話す分には言葉が出てきます。犬とも、話ができるんですよ(笑)。リラックスしていれば、大丈夫なんですね。ゆっくりですが、父の言語機能は回復していき、私たちを喜ばせてくれました。

 

けれど、父の落胆を消すことはできませんでした。

 

父の思いをまるごと受け止めるのが私の仕事

2_2父は幼い頃、両親をなくして叔母夫婦に引き取られました。しかし、その後すぐに叔母夫婦には弟が生まれ、父は肩身の狭い思いをしたようです。そんな中、一生懸命に勉強をし、働きながら夜間の大学に通って弁護士資格を取得。旧国鉄で法務の仕事をしていました。定年後に今の仕事に就き、こちらでも法務と経理を担当。次の仕事先ももう決まっていて、「70歳まで働きたい」と言うほど、体も心も元気だったのです。だから、自分の脳が今までどおりでなくなってしまったことが辛くてたまらないのです。だいぶ言葉がしゃべれるようになってから、ふと私にもらした言葉は、「こんな状態で生きているのは嫌だ、人に迷惑をかけるぐらいなら、死んだほうがいい」でした。

 

仕事も辞めざるを得ませんでした。面会に来たときには脳を一生懸命に動かして話すので、職場の人たちは、父の後遺症を信じられないようでした。「なんとか復帰できないか」と言われるのです。が、数字も文字もあやふやにしか扱えないのですから、事務仕事はもう無理。3月末で退職扱いにしていただき、父に付き添って職場に挨拶に行きました。

 

すると、父の机のあるフロアの職員だけでなく、全フロアの職員が集まってくれるのです。まったく違う部署の女性職員の中にも、別れに涙を流してくれる人がたくさんいて。父が職場で深く信頼されていたことを知り、胸が熱くなりました。その分、父の落胆が大きかったことも、理解できました。

 

とにかく、私にできることは、父を受け止めること。そして、父の気持ちに寄り添いながら、機能回復を支えること。「お父さんはなんでこんなふうになってしまったのかしら、かわいそう、かわいそう」と泣くばかりの母には、リハビリを任せるわけにいきませんでした。

 

しかし、父もまた努力家でした。私とのリハビリの時間とは別に、自分なりに単語カードを作って、小さな時間にも言葉を覚えることを日課にしていました。動きのいい左手で毎日絵を描いて、手のリハビリにも努めていました。どんなに心折れても、忍耐と努力を忘れない。そんな父を改めて尊敬し直しました。

 

母は母で、頼りないながらも、「父を観察する」ということにかけては、天下一品でした。私がどこにいても「またお父さんがおかしいの」、と電話をかけて頼ってくるのですが、この見立てが適切なのです。父のそばを片時も離れない母は、父の小さな異変にも気づくのですよね。水分をあまり取らず、フラフラしているようだ、怒りっぽくなっている、また発作を起こしたらどうしよう――。涙声で訴えてくるときは、発作の前兆ということも多かったのです。私はその都度、急いで家に戻り、父を病院に連れて行きました。そこで即入院、となることも、何度もありました。めざとい母のおかげで父は何度も命拾いをしたのです。

 

次回は、いよいよ病状が悪化するお父様の状況をお伝えします。

 

*写真はイメージです。

 

*この体験談の1回目2回目3回目4回目(最終回)はこちら

 

プロフィール

M・Uさん(女性 50歳)派遣業主
東京都在住。30歳のときに父親が脳梗塞で倒れ、母親、姉とともに介護を始める。当時父親は66歳。いつしか介護のキーパーソンとなり、父親に寄り添うようになる。ミュージシャンとしての仕事をセーブし、ミュージシャンや俳優のアルバイトの仕事を斡旋する派遣業を主な仕事とする。父親に施していた足ツボマッサージを入院中の病院の看護師に教えたことをきっかけに、足ツボマッサージの講師としても活躍。17年間闘病した父親は3年前に他界。現在独身。

 

介護体験談はこちらの記事も参考に

私が思う「良い老人ホーム」より
●デザイナー・東海大学講師/山崎 正人さん
●モデル・タレント・ビーズ手芸家/秋川 リサさん
●フリーアナウンサー/町 亞聖さん
●エッセイスト・ライター/岡崎杏里さん
●フリーアナウンサー/岩佐 まりさん
●映画監督/関口 祐加さん
●漫画家/岡 野雄一(ぺコロス)さん

 
さまざまな介護体験を語っていただいています
→ 介護体験談<親の介護 編> 一覧
→ 介護体験談<義理の親の介護 編> 一覧
→ 介護体験談<妻・夫の介護 編> 一覧
→ 介護体験談<祖父母の介護 編> 一覧
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