終末期を迎え、最期をどこで過ごすのか、それも、難しい問題でした。もはや自力で食べ物を飲み込んだり、たんを出したりすることもできなくなった父が、自宅で暮らすのは難しい。そしてH・Nさんが選んだ道は……? 最終回は、終末期医療の受け止め方について、Hさんの考え方を伺いました。
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病院を退院して有料老人ホームへ
父は1カ月間、生死をさまよいながら、病院で過ごしました。その間、私は自分を責め続けました。病院に運ばないほうがよかった……。その思いがどんどんふくらんできたのです。
父はもう食べ物を飲み込むこともできず、たんを出すこともできないので、若い医師は当然という顔で、「経鼻栄養にしましょう。たん吸引ももちろんします」と言いました。しかし、経鼻栄養にしたら、それをやめることはできない。父の意識がなくなっても、栄養は送られ続けます。それは、父を「死ぬように生かす」ことになる……。
「どうしても経鼻栄養をやらないといけないんですか?」と私はおずおずと聞いてみました。自分の考えがまとまらないので、強く意見が言えません。すると、若い医師は何言ってんだ、とばかりにこう言い放ったのです。「やらないと死にますよ」
次の日から、父はチューブにつながれました。つながれたその姿を見るのもつらかったですが、たん吸引のときはもっとつらかった。父は本当に苦しそうなのです。たんを吸引すればラクになるのだと思っていたら、まるで拷問のようなのです。しゃべれない父は何も文句を言えず、ただ耐えるだけ。その姿を見るたびに、後悔の念が沸き起こります。
父はこんなふうに生きていたかったのだろうか。何日か、何カ月か長く生きるより、あのとき家で亡くなったほうがよかったのではないか。
考えれば考えるほどつらくて、涙が止まらなくなりました。そのころは夜もよく眠れず、眠ったら、必ず怖い夢を見ました。魔物に追いかけられる夢、電車に乗り遅れて大切な用事をすっぽかす夢、道に迷ってさまよう夢……。ありとあらゆる怖い夢を、連夜見続けました。
父はますます衰えましたが、急性期病院に長くいることはできません。1カ月近く入院した後、家に帰るのか、別の病院に行くのか、病院の相談員とも相談しましたが、結局、有料老人ホームに入居することにしました。
療養型病院は近くにありませんでしたし、特養はすぐには入れない。父の状態もあまりよくなかったですし、たん吸引は母にはできなかったので、やってくれるところを探しました。
幸いにも実家からすぐ近くの有料老人ホームで、たん吸引も経鼻栄養もやってくれるところを探せました。
みんながいないところで静かに息をひきとる
有料老人ホームに移ってからも、父は2時間ごとのたん吸引のたびに苦しみました。嚥下の力がなく、経鼻栄養なので、もちろん、口から何かを食べることもできません。好き嫌いは多かったけれど、食べることが大好きな父の前で、私たちが何かを食べるのは、とてもかわいそうで、できなかった。だから、1日部屋で寄り添っていても、食事をするときは部屋から出て、父の目につかないようにしていました。
母は毎日10時から19時まで、私も仕事がないときはすべて、父の部屋に通いました。“ホームで看取る”という形で契約をし、往診の先生も看取りの医療を施すということでした。ただ、看取りの医療というのは、「積極的な治療をしない医療」なんですね。かゆみどめの軟膏とか、傷に貼るテープなどはもちろん使ってくれますが、これまでずっと飲んでいた薬を全部やめて、死を迎える。薬は日に10種類も飲んでいたので、飲まなくなってよかったと思いましたが、熱が出ても熱さましも処方されず、冷やしておくだけ、ということに違和感がありました。
父は一度39℃の熱を出しました。そのときも冷やすだけ。後から考えれば、痛みや辛さを軽減する治療はしてもらえたはずなので、医師に「つらさを軽減する治療をしてください」と言えばよかった。でもそのときは知識がなくて、言えませんでした。やはりいろいろ勉強しておくべきだったな、と思いました。
そんなふうに、私と母とで、ずっと寄り添っていたのに、父は、母がひとりで訪れた日、母が部屋を出て簡単な昼食を食べているほんの少しの間に、息を引き取ってしまいました。2013年5月。最初に倒れてから2年足らず、有料老人ホームに入居してからわずか1カ月でした。
駆けつけて、父の顔を見ると、とても穏やかでした。最期に立ち会えなかったのは、とても残念です。でも、すべての痛みやつらさから解放され、安らかに眠るその表情を見ると、「お父さん、本当によくがんばった。もうがんばらなくていいよ」と思わず言葉が出てきました。
父に寄り添った月日を、今も折にふれ、思い出します。
あの時、救急車を呼んでよかったのか、私が、父の声や手や足にならなくてはと、せっせと病室に通ったけれど果たして父の力になってあげられていたのかと、父の死から3年たった今も、考えてしまうことがあり、胸が苦しくなります。
そんな時、唯一言うことができるのなら、正しかったか正しくなかったかは別として、その時に「自分がやれることはやった」ということだけです。やれることはやったんだからしかたない、許してもらおう……。年月を経て、そういうふうに少しずつ思えるようにはなってきました。
「これでいい」と思えないことが、もどかしく、苦しい。しかし、迷いのない介護や後悔のない看取りって本当にあるのでしょうか。親を持つ子供の、永遠のテーマかもしれないですね。
*写真はイメージです。
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プロフィール
H・Nさん(女性 48歳)イラストレーター
神奈川県在住。43歳の時に父親が脳梗塞で倒れ、入院。右半身麻痺となる。父親と同居の母親が主介護者だが、医師との面談や看護・介護の方針の決定はHさんが中心となる。仕事はフリーランスなので、時間の自由がきく。そのため、父親の入院中や退院後の在宅療養中は、仕事がないときはすべて父親に寄り添う。2度目に倒れた後の老人ホームの入居手続きもHさんが行う。しかし、2013年、父親は入居後すぐに死去。現在もイラストレーターの仕事を続けている。夫、高校1年生の長男と3人暮らし。
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