レビー小体型認知症が悪化するなか、特別養護老人ホーム(特養)と病院を行ったり来たりしていた夫。夫はすでに言葉も出ず、特養から病院へ入院する回数も増えてきました。経済的にも厳しくなってきた時期、妻I・Rさんの介護もクライマックスを迎えます。
*この体験談の1回目、2回目、3回目、4回目(最終回)はこちら
高カロリー栄養の点滴で生きながらえて
入居していた特養では、胃ろうの世話もしてくれて、とてもありがたかったです。でも、厚生年金を多くもらっていたせいか、利用料が月々18万円もかかるのが本当に困りました。特養にいた4年半は、貯金を切り崩してなんとかしのいでいた状態です。一方夫はパーキンソン症候群のため身体障害1級でしたので、医療費は無料でした。だから、病院に入院してしまうと、パジャマやタオル代程度しかかからず、経済的にはとても助かりました。正直、ずっと特養で最期まで過ごしたら、我が家の家計は破綻していたかもしれません。
とはいえ、病院もまた、長くなると介護する負担が大変でした。頻繁に失神する夫は、次第に体力を失い、晩年はその都度、危機がやってきました。本当に命がいつまでもつのか。闇に包まれました。
そんな中、失神した夫を見舞いに病院に行くと、胃ろうが外され、鎖骨のところに点滴が。これはなんだろう……。看護師さんに聞くとIVHだ、ということでした。IVH(Intravenous Hyperalimentation)とは、「中心静脈栄養法」の略称で、主に鎖骨下の大静脈にカテーテルを挿入して、高カロリー輸液で栄養補給をするものです。
てんかんの薬を定期的に入れたくても口からは難しい、だったら点滴として投与せざるをえない。どうせ点滴になるのなら、ついでに高カロリー輸液で栄養を補ったほうがいい、という判断だったようです。しかし、家族になんの許可もなく? 割り切れないものがありました。
たしかに、高カロリー輸液を入れれば、元気は出るでしょう。でも、脳や手足の動きは本当に悪くなっていて、死に向かっているのです。栄養を入れても脳は元気になるわけではなく、人としてますますアンバランスになっていく気がします。かといって、夫に少しでも生命力がつけば、喜ばしいこと。この治療でいいのか、自然に逆らっているのではないか、しかしそうは言ってもまだ夫に息を引き取らせたくない――。私の心は大揺れでした。
「IVHを使っても、命はそう長らえることはできません、2年ほどが限度でしょう」と、看護師長が言います。暗に「覚悟をして備えてください」ということなのでしょうか。夫が存在しなくなる覚悟、そして、夫が亡くなってからの生活の備え。いろいろな準備が必要になるということなのでしょう。
医療費の浮いた部分で葬式の準備を
まず、夫の死を受け入れる覚悟を決めました。認知症と診断されて10年以上。失神や失禁を繰り返し、弱っていく夫は、もうそろそろ病と闘うことから開放されてもいいはずだと思うようにしました。無理やりでも、そう思ったほうがいいと念じました。
すると、次の課題は葬式でした。切り崩した貯金の額と、必要なお金を計算し、貯金をしなければ、と思いました。危篤状態になるたびに病院に泊まり込み、介護をしながら倹約もし、お金を少しづつ貯めて。そして看護師長が予測した2年後に、夫は息を引き取りました。2013年の秋、享年74歳でした。
「ご苦労様、ようやく開放されたね」。死を告げられた瞬間、私の口から自然と出た言葉です。その言葉は、夫に、そして自分自身にも向けた言葉でした。夫の兄弟の力も借りず、実父の「援助しようか?」の申し出も断り、黙々と介護してきた日々がようやく終わったのです。肩の荷が降りる、とはこういう事を言うのだな、と思いました。
夫とふたりで入れる合葬の公営霊園に応募し、当選していました。小さな葬式を終え、ここに夫の骨壷を収めました。その後、実父の介護も終えると、私は72歳になっていました。これからは、夫の遺族年金で生きていくのだ、ついに自分は未亡人になったのだな。そんな実感が湧いてきました。
周囲の人たちは、私を慰めようと、「やっと介護から開放されたのだから、旅行に行くなり、お稽古事をするなり、存分に遊びなさい」と言ってくれます。けれど、長年しみついた「家族の世話焼きに時間を費やす」生活習慣は、そう簡単に変えることができません。娯楽といっても部屋で読書をすることぐらい。これからも、質素に暮らしていくことになるでしょう。
ただ、長年の介護の経験で集めた情報や家庭での介護のしかた、そして病院や老人ホームとのおつきあいの仕方などを、多くの方々にお伝えしたい気持ちがあります。また、私と同じように介護している家族の方々を支えたい、という気持ちもあります。そこで、地域の認知症サポーターの養成講座の手伝いや、地域包括の介護者の集いのサポーターなどを始めました。介護をしている家族のみなさんに、少しでも生かしてもらえるよう、お話をしたりしています。
思えば、夫は頑固な人でした。ときに、「この人に尽くした先には何があるんだろう」と暗い気持ちになることもありました。でも、夫を介護することで、私はさまざまな学びを得ました。人に尽くすこと、そして尽くしても見返りを求めないことも学びました。見返りを求めるなんて、最期には考えなくなるんですよね。ただ、「よい最期を迎えてほしい、幸せに天に導かれてほしい」という一心で、人は介護ができるのだな、としみじみと思いました。
*写真はイメージです。
*この体験談の1回目、2回目、3回目、4回目(最終回)はこちら
プロフィール
I・Rさん(女性 72 歳)
東京都在住。お見合いで結婚、専業主婦として過ごす。夫が63歳の頃、突然字が書けなくなり、左右の見当もつかず、歩き始めたら止まらなくなる。レビー小体型認知症だと診断される。この頃、妻のI・Rさんは57歳だった。以後、献身的に介護をし、夫は特養、病院などを行ったり来たり。夫は74歳の時に亡くなる。子どもはなし。
ほかの介護体験談も読む
●他の人はどんな介護をしているの?「介護体験談一覧」
私が思う「良い老人ホーム」より
●デザイナー・東海大学講師/山崎 正人さん
●モデル・タレント・ビーズ手芸家/秋川 リサさん
●フリーアナウンサー/町 亞聖さん
●エッセイスト・ライター/岡崎杏里さん
●フリーアナウンサー/岩佐 まりさん
●映画監督/関口 祐加さん
●漫画家/岡 野雄一(ぺコロス)さん