「親の介護」というと、結婚し、子どもも独立した50代の子どもが、80代の親をみるなど、と想像しがちです。が、Y・Aさんの場合は、父親の介護の始まりが27歳のとき。父親が亡くなると、次に母親ががんを発症。32歳で独身のまま、ひとりで母親の介護をしました。父親に次いで、母の介護。一人っ子のシングルで、孤軍奮闘で介護を行ってきた彼女の胸の内を、じっくりと聞きました。
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生活が軌道に乗ってきたところで父に異変が
私は父が45歳の時に生まれた子ども。ひとりっ子でかわいがられましたが、その反面、父は「あれはダメ」「これもダメ」と厳格で、箱庭の中で育てられたような感じでした。
商社マンだった父はロシアのビジネスに忙しく、年に半分しか家にいないのに、いつも見張られているような閉塞感がありました。だから、私は父がいまひとつ好きになれませんでした。
中学に入ると学校に行けない日が多くなり、高校は半年で辞めました。フリースクールに通いながら大検を取ったものの、音楽の道に進みたくて、音楽専門学校に行きたいと言ったのですが、父にガンとして受け付けてもらえず、「浪人してもいいから大学に行け」と無理やり大学を受けさせられました。でも、行きたくなかった大学、やはり1年で行けなくなってしまいました。
その後、「音楽専門学校に行きたいなら行け。ただし自分で金を稼いで学費を払え」と言い出した父。念願の音楽の勉強。ずっとやりたかったことなので、私はすぐにバイトを始めました。学費をある程度稼いだところで、専門学校に通い始め、学校とバイトを掛け持ちする日々が始まりました。
父は、58歳で仕事を辞め、悠々自適で陶芸に、水墨画に、太極拳に、と習い事の日々。あっちはのんびり楽しくやっているのにな、と横目で見ていました。母も、父が退職してからは、「年金だけで暮らすのも不安だし、お父さんと四六時中、顔を合わせているとケンカになりそうでしょ」と、パートに出ていました。つまり、我が家は父が家にいて、私と母が仕事に学校にと忙しい、という家族でした。
父は若い頃、結核をわずらったことで、肺が半分しかありませんでした。「そんな体で、家族のためにずっとがんばってきたんだから、少しはいたわってあげなくちゃね。体力的にも、のんびりやらないと、命が危ないわ」と母はよく言っていました。でも、どんなにのんびりしていても、ちょっとしたことで怒鳴り、上から目線で押さえつけるところは若い頃から変わらず、私にはただ、煙たい存在でした。しかも、私は1年ほどバイトと学業をがんばったら、体がついていけず、結局専門学校をやめることになってしまったのです。そんな私を、父はまた、軽蔑するような目で見るのです。
私は何をやってもうまくいかない、父にも認めてもらえない……。この先、何をしたらいいのかもわからなくなって……。ふと募集をしていた書店で、アルバイトを始めました。これが性に合っていたのでしょうね。勤務時間は長く、まるで正社員のようでしたが、日々のリズムができてきて、心身ともに元気になってきました。「この仕事でがんばろう」と希望に燃え、5カ月ほどたったところで、父親が認知症を発症したのです。72歳でした。そして私も、まだ27歳でした。
父の世話をすると”介護うつ”になる
父は、太極拳に母と一緒に行き、帰りがけ、母が「ちょっと待ってて」と言って、仲間と少し話している間に、いなくなってしまう。母が、ひとりで帰ったのかな?と思ったら、だいぶたってから父が帰ってきた。こんなことから、気づきました。水墨画のお稽古では、理由なく怒り出し、先生に食ってかかってしまいます。陶芸は少し遠い場所まで通っていましたが、電車の乗り換えなどが難しくなっていたのでしょう。「遠くて疲れるから辞める」と言い出しました。
母がうまく説得して病院に連れて行くと、アルツハイマー型の認知症だとわかりました。ちょうど母は一過性の脳梗塞で倒れたこともあり、仕事を辞め、父の世話に専心することになりました。
家にいる時間が増えると、ますますいらつくようになった父。物を失くすことが増え、動作も鈍くなっているから、まず、自分にイライラするのでしょうね。そのやつあたりのように、母には小さな用事も言いつけ、私には以前より口うるさく「早く帰ってこい」「遊びに行くな」と言います。最初の頃は、私も父に付き添ったり、失くしものを探したりしていたのですが、半年ほどすると、自分が”介護うつ”のような状態になってしまい、働くことも、父の世話をすることもできなくなってしまいました。
一過性とはいえ、脳梗塞で倒れた母ひとりに介護を任せることは、心配でした。また倒れたら……と思うと、心配でなりません。でも、母から見れば、きっと私のほうが危なっかしかったのでしょう。「あなたの具合が悪くならないように、お父さんから離れなさい。そして、仕事をがんばりなさい」と。
正直、私も父とあまり顔を合わせないほうが心身ともに楽なのです。母ががんばっているのを心配しながらも、つい父から逃げるようになり、忙しく仕事をこなす毎日が続きました。
しかし、そうも言っていられなくなりました。認知症発症から2年ほどたち、もともと肺が弱かった父は、みるみる全身状態が悪くなり、ほとんど家で伏せている状態になってしまったのです。
次回は、肺の病気がすすんだ父親の闘病の様子をお伝えします。
*本文中の写真はイメージです。
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プロフィール
Y・Aさん(女性 36歳)
東京都在住。2006年、もともと肺が弱かった父親が73歳のときに認知症を発症。肺の持病もこじらせて入退院を繰り返す。Y・Aさんは、この頃、父親の言動をめぐってうつ状態に。父親は2010年には療養病院へ。同年に亡くなる。一息つく暇もなく、2011年に母親がすい臓がんと診断される。抗がん剤の点滴をするが、2012年の末に70歳で死去。以後は、家族で暮らした家に一人暮らしをしている。
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