認知症の介護なら、少しずつ病状が悪くなるので、介護計画が立てやすいもの。しかし、けがの場合は、その瞬間からいやがおうでも介護が始まってしまいます。知識も対策もないまま急いで始めるから、失敗続き。まして姑が相手では、ますます介護者の気持ちは複雑に……。今回の体験談は、義母のけがが発端で介護が始まり、お嫁さんの立場で悩むR・Mさんの紆余曲折をお伝えします。
*この体験談の1回目、2回目、3回目、4回目(最終回)はこちら
夫の入院中に義母も脚を骨折――
2005年の1月は、年始からハプニングでした。1月4日に、夫が家の階段から滑り落ちて、脚の骨を折り、入院。半身麻酔をかけて手術をし、ようやく退院のめどがついたのが1月15日です。2月1日からの次女の中学受験が目前で、「まったく、試験前なのに、滑ったり落ちたりしないでほしいよね」などと冗談を言う余裕も出てきた頃でした。しかし、長女とともにリビングでくつろいでいると、隣の義母の部屋から、ガラガラガッシャーン!と大きな音が。あわてて部屋に入っていくと、はきだし窓があいた縁側から下に、義母が落ちているのが見えました。洗濯物を取り込もうと、さおに手を伸ばしたところでバランスを崩し、落ちたのです。
えっ……、もうひとり骨折!?
呆然としているその目の先で、義母が立ち上がろうとしています。
「お義母さん、動かないで! けががひどくなります。私が手伝うから……」
そう言っているのに、興奮しているのか、立ち上がり、縁側に登ろうとして「イタタタタ…」なんてやっているのです。「とにかく、動かないで!!」あわてて駆け寄り、そっと義母を背負って部屋に入れました。
あわてて夫が入院している整形外科に電話をし、休日の診療をなんとか頼み込みました。義母はというと、「救急車はいやよ、みっともない。ウーウーサイレン鳴らされたら、近所の人に何言われるか」。長女に手伝ってもらい、自家用車に乗せて病院に急ぎました。
「かかとの骨が砕けてますね」。レントゲンを見て、医師は言いました。それじゃ、手術と入院!? 「いや、安静にして骨がつくのを待ってください。自宅で療養です。1ヶ月はかかるでしょう」。目の前が真っ暗です。2日後には、手術をしてまだギブスの夫が帰ってくる。夫はギプスでも出勤しなければならず、その送迎も必要です。娘の受験は半月後。正直、義母には入院してもらっていたほうが、ずっとラクでした。こんなことで、私は自分の仕事に行けるんだろうか……。
とはいえ、勤めている職場を辞めるわけにも休むわけにもいきません。娘を私立中学に行かせるためには、働くしかないのです。これから受験料、入学金と数十万のお金がかかる。入学後は、高い授業料を払うのです。長女は国立の高校に入ってくれたからいいものの、それほどの学力がない次女は、どうしても私立の中高一貫校に行きたいと言うのです。荒れて評判の悪い地元の公立中学に行かせるのもはばかられ、決めた受験。しかし、直前に、こんなに大変なことになるとは……。
その日から、介護が始まりました。元気だった義母は、84歳ながら、毎日朝からバスに乗って老人福祉センターに出かけては、おしゃべりや入浴を楽しんでいて、家にいたことはありませんでした。その義母が、ギプスをつけて家にいなければならないのですから、イライラがつのります。長女と義母に弁当をつくり、義母の包帯を替えてお茶と弁当を義母の部屋のちゃぶ台に乗せて、出勤しようとすると、「いいわよねぇ、毎日お出かけですもんね」と恨みがましい言葉をぶつけてきます。
高齢者はけがをすると、その瞬間から介護が始まるんだ。しみじみ思いました。なんの前ぶれもなく、介護の知識もない。当時、私は「介護保険って、それ何?」ぐらいに無知でした。動けるのは自分だけ、という状態の中で、自分の体力だけが頼りでした。
驚くほどの回復力で歩けるように
結婚してすぐ同居を始めた義母は、自由人で気ままな人でした。「私は自分のことは全部自分でやるから。あなたの世話にならないわよ。そのかわり、孫の世話もしないからそのつもりでね。もし私がけがでもして動けなくなったら、病院でも施設でも入れてちょうだい」。言葉どおり、自分の食事や洗濯、自室の掃除は自分でやり、孫の世話はしませんでした。熱を出して子どもが保育園を休んでも、私が残業で遅くなっても、子どもを家でみたり、保育園まで子どもを迎えに行ったり、そんなことは一度もしたことはありませんでした。食事も、買ってきた惣菜で自分の分だけすませ、家族の分の調理をすることはありません。クリスマスも子どもたちの誕生日も自室にこもったきりで、孫たちを一緒に祝うこともないし、プレゼントやお小遣いをくれることもありませんでした。
なんて変わった人なんだ……。最初はびっくりしました。せっかく家族になったのだから、もっと仲よくしたいと思って、いろいろとアプローチもしました。でも、何をもちかけても、「私はいいわ」と断られ、自室でひとりでくつろいでいます。途中からあきらめました。高齢だけれどまだ元気だから、好きに毎日過ごせばいい。介護はもう少し先でしょう。ところが、病気はしなくても、けがはします。こんな風にけがをして歩けなくなったら、「自分で全部やる」もなにもなくなります。
幸い、這ってトイレまで行けたし、食欲もあったので、着替えを手伝い、昼ご飯の用意さえすれば、自宅でひとりで過ごせました。私のほうは、ギプスの夫に手伝ってもらうわけにもいかないし、夫の送迎はあるし、受験日の4日間を休むことにしてしまっていて、これ以上の有給休暇もとれそうもありません。後ろ髪引かれる思いではありましたが、毎朝、義母にお留守番をしてもらって出勤をするしかありませんでした。そして、仕事から戻ればまずは義母と長女の食事、次女の塾の迎え。こわごわ、義母をお風呂に入れる仕事もあります。そのうち夫が帰ってくるので、駅まで車を出します。土曜日には、夫と義母を病院まで送り、夫がリハビリをする間に車椅子を押して母の診療に付き添い、終わればふたりを乗せて家に戻る。昼食、掃除、洗濯物の取り込み。そうこうしているうちに夜になり、次女の迎えと受験の準備。時間がいくらあっても足りませんでした。
ようやく次女の受験が終わった頃には、夫の脚もだいぶよくなり、義母の車での通院やリハビリを任せられるようになり、ほっとしました。義母は安静後に1ヶ月ほど歩く練習をしたら、ほぼ以前どおりに歩けるようになり、「このご年齢では考えらないほどの回復ですね。もう大丈夫ですよ」と医師にお墨付きももらいました。
夢中で駆け抜けた冬、もう春はそこまで来ていました。次女の入学準備で制服を作るなど、娘たちのほうを向いて一緒に楽しむ余裕ができたその頃。愕然とすることが起こりました。
「ねえ、ほら、斜め向かいの人の名前、なんだっけ」。義母が私に尋ねるのです。ななめ向かいの松田さんは最近、義母がとても仲良くしている方です。名前を忘れるはずはないのに……。これは……。そう、認知症の始まりでした。
次回は認知症の姑に付き合ううち、憔悴するR・Mさんの様子を伝えます。
*写真はイメージです。
*この体験談の1回目、2回目、3回目、4回目(最終回)はこちら
プロフィール
R・Mさん(女性 54歳)団体職員
埼玉県在住。夫、ふたりの娘と4人暮らし。9年前、同居していた84歳の義母が縁側から落ちて右足のかかとを損傷。かろうじて歩けるようになったものの、2ヶ月後には認知症のきざしが。以後、徘徊、妄想などが始まり、本格的な介護が始まった。夫は義母の認知症を完全には認めないので、介護方針が立たない。どんどん病状がすすむ義母のサポートで疲れきり、軽いうつ状態になってしまう。
ほかの介護体験談も読む
●他の人はどんな介護をしているの?「介護体験談一覧」
私が思う「良い老人ホーム」より
●デザイナー・東海大学講師/山崎 正人さん
●モデル・タレント・ビーズ手芸家/秋川 リサさん
●フリーアナウンサー/町 亞聖さん
●エッセイスト・ライター/岡崎杏里さん
●フリーアナウンサー/岩佐 まりさん
●映画監督/関口 祐加さん
●漫画家/岡 野雄一(ぺコロス)さん